最高裁判所大法廷 昭和39年(あ)305号 判決 1969年10月15日
主文
本件各上告を棄却する。
理由
弁護人大野正男、同中村稔、同柳沼八郎、同新井章の上告趣意第一点について。
論旨は、原判決が、文書の猥褻性と芸術性・思想性とはその属する次元を異にする概念であり、芸術的・思想的に価値の高い作品でも、刑法一七五条の猥褻罪の適用の対象となる旨判示し、本件「悪徳の栄え(続)」を猥褻の文書にあたるものとしたのが、刑法一七五条の解釈適用を誤り、憲法二一条および二三条に違反するというのである。
しかし、右論旨は、左記(一)ないし(五)に記載するところにより、理由がないものといわなければならない。
(一) 原判決が、刑法一七五条の文書についての猥褻性と芸術性・思想性との関係について、当裁判所昭和二八年(あ)第一七一三号同三二年三月一三日大法廷判決(刑集一一巻三号九九七頁)(いわゆるチャタレー事件の判決)の見解にしたがうことを明らかにしたうえ、猥褻性と芸術性・思想性とは、その属する次元を異にする概念であり、芸術的・思想的の文書であつても、これと次元を異にする道徳的・法的の面において猥褻性を有するものと評価されることは不可能ではなく、その文書が、その有する芸術性・思想性にかかわらず猥褻性ありと評価される以上、刑法一七五条の適用を受け、その販売、頒布等が罪とされることは当然である旨判示したことは、原判決の記載によつて明らかである。そして、所論の点について、前記大法廷判決は、右同趣旨の理由のほか、なお、「芸術といえども、公衆に猥褻なものを提供する何等の特権をもつものではない。芸術家もその使命の遂行において、羞恥感情と道徳的な法を尊重すべき、一般国民の負担する義務に違反してはならないのである。」と判示しており、当裁判所も、また、右各見解を支持すべきものと考える。そして、右各見解によれば、芸術的・思想的価値のある文書であつても、これを猥褻性を有するものとすることはなんらさしつかえのないものと解せられる。もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられるが、右のような程度に猥褻性が解消されないかぎり、芸術的・思想的価値のある文書であつても、猥褻の文書としての取扱いを免れることはできない。当裁判所は、文書の芸術性・思想性を強調して、芸術的・思想的価値のある文書は猥褻の文書として処罰の対象とすることができないとか、名誉毀損罪に関する法理と同じく、文書のもつ猥褻性によつて侵害される法益と芸術的・思想的文書としてもつ公益性とを比較衡量して、猥褻罪の成否を決すべしとするような主張は、採用することができない。
(二) 刑法一七五条は、文書などを猥褻性の面から規制しようとするもので、その芸術的・思想的価値自体を問題にするものではない。けだし、芸術的・思想的価値のある文書は、猥褻性をもつていても、右法条の適用外にあるとの見解に立てば、文書の芸術的・思想的価値を判定する必要があるであろうが、当裁判所がそのような見解に立つものでないことは右(一)において説示したとおりであるからである。原判決が、「現行刑法の下では、裁判所は、文書が法にいう猥褻であるかどうかという点を判断すれば足りるのであつて、この場合、裁判所の権能と職務は、文書の猥褻性の存否を社会通念に従つて判断することにあつて、その文書の芸術的・思想的の価値を判定することにはなく、また裁判所はかような判定をなす適当な場所ではない。」と判示したのは、措辞に妥当を欠く点がないではないが、要は、裁判所は、右法条の趣旨とするところにしたがつて、文書の猥褻性の有無を判断する職責をもつが、その芸術的・思想的価値の有無それ自体を判断する職責をもつものではないとしたのであつて、なんら不当なものということはできない。
(三) 以上のような考え方によると、芸術的・思想的価値のある文書でも、猥褻の文書として処罰の対象とされることになり、間接的にではあるが芸術や思想の発展が抑制されることになるので、猥褻性の有無の判断にあたつては、慎重な配慮がなされなければならないことはいうまでもないことである。しかし、刑法は、その一七五条に規定された頒布、販売、公然陳列および販売の目的をもつてする所持の行為を処罰するだけであるから、ある文書について猥褻性が認められたからといつて、ただちに、それが社会から抹殺され、無意味に帰するということはない。
(四) 文書の個々の章句の部分は、全体としての文書の一部として意味をもつものであるから、その章句の部分の猥褻性の有無は、文書全体との関連において判断されなければならないものである。したがつて、特定の章句の部分を取り出し、全体から切り離して、その部分だけについて猥褻性の有無を判断するのは相当でないが、特定の章句の部分について猥褻性の有無が判断されている場合でも、その判断が文書全体との関連においてなされている以上、これを不当とする理由は存在しない。したがつて、原判決が、文書全体との関連において猥褻性の有無を判断すべきものとしながら、特定の章句の部分について猥褻性を肯定したからといつて、論理の矛盾であるということはできない。
(五) 出版その他の表現の自由や学問の自由は、民主主義の基礎をなすきわめて重要なものであるが、絶対無制限なものではなく、その濫用が禁ぜられ、公共の福祉の制限の下に立つものであることは、前記当裁判所昭和三二年三月一三日大法廷判決の趣旨とするところである。そして、芸術的・思想的価値のある文書についても、それが猥褻性をもつものである場合には、性生活に関する秩序および健全な風俗を維持するため、これを処罰の対象とすることが国民生活全体の利益に合致するものと認められるから、これを目して憲法二一条、二三条に違反するものということはできない。
原判決が、本件「悪徳の栄え(続)」のうち原判決摘示の一四個所の部分を右訳書の内容全体との関連において考察し、右部分は、性的場面をあまりにも大胆率直に描写していて、情緒性に欠けるところがあり、その表現内容も非現実的・空想的であるうえに、その性的場面が、残忍醜悪な場面と一体をなし、あるいはその前後に接続して描写されているなどの理由で、いわゆる春本などと比較すると、性欲を興奮または刺激させる点において趣を異にするものがあるが、なお、通常人の性欲をいたずらに興奮または刺激させるに足りるものと認め、これらの部分を含む右訳書を刑法一七五条の猥褻の文書にあたるものとしたのは正当であり、したがつて、原判決に所論憲法の違反があるということはできない。
同第二点について。
論旨は、まず、原判決が、「本件の争点は本訳書の猥褻性の判断のみにかかわり、訴訟記録並びに原審(第一審)において取り調べた証拠により直ちに判決をすることができるものと認められるから、同法(刑訴法)第四〇〇条但書により更に判決する。」と判示し、第一審判決が犯罪事実の存在を確定していないのに、なんら事実の取調をすることなく第一審判決の認定判断をくつがえし、無罪の判決を変更して有罪の判決を言い渡したのは、当裁判所昭和二六年(あ)第二四三六号同三一年七月一八日大法廷判決(刑集一〇巻七号一一四七頁)その他同旨の各判例に違反し、かつ、憲法三一条、三七条に違反すると主張する。
よつて、右論旨を検討すると、所論引用の判例のうち、昭和三三年二月一一日の第三小法廷判決(刑集一二巻二号一八七頁)を除く、その余の各判例の判旨は、所論のとおりであり、いずれも法律判断の対象となる事実そのものの存否について争いがあり、それさえも認定されていない事案についてのものである。しかるに、本件第一審判決によると、その理由の冒頭に公訴事実を掲げ、次いで、「当裁判所において取り調べた証拠によれば、右公訴事実のうち、『悪徳の栄え(続)ジュリエットの遍歴―』と題する単行本(以下単に「本件訳書」という。)が、刑法第一七五条にいう『猥褻ノ文書』に該当するかどうかの点を除く、その余の事実は、概ねこれを認めることができるのであるが、以下猥褻の文書の意味、要件、判断基準等の諸点につき、本件訳書の猥褻性を判断するに必要な限度で順次当裁判所の見解を明らかにするとともに被告人等の本件所為が、いずれも罪とならない理由を説明する。」と判示しており、記録を検討すると、第一審が適法に取り調べた証拠により右公訴事実は猥褻性の判断を除きすべて十分にこれを認定することができ、ことに、被告人らは、第一審公判において猥褻性の点を除き公訴事実を認めているのであるから(原審が破棄自判した場合において掲げた証拠の標目参照)、本件は、右各判例がいう「第一審判決が被告人の犯罪事実の存在を確定せず、無罪を言い渡した場合」に該当しないものといわなければならない。したがつて、右昭和三三年二月一一日の第三小法廷判決を除くその余の所論引用の各判例は、法律判断の対象となる事実そのものの存在については争いがなく、それが認定されている本件には適切ではないといわなければならない。
これに反し、右昭和三三年二月一一日の第三小法廷判決は、法律判断の対象となる事実そのものの存在については争いがなく、それが認定されている事案について、第一審判決が被告人の犯罪事実の存在を確定せず無罪を言い渡した場合に、控訴裁判所がみずからなんら事実の取調をすることなく、第一審判決を破棄し、訴訟記録および第一審裁判所において取り調べた証拠のみによつて、ただちに被告事件について犯罪事実の存在を確定し有罪の判決をすることは、刑訴法四〇〇条但書の許さないところである旨判示しているのであるから、前記原判決の判断は、右判例に相反するものというべきである。しかし、法律判断の対象となる事実そのものの存在について争いがあり、それが認定されていない場合には、その事実の存否について当事者に争う機会を与え、事実の取調をして、判決をすることが直接審理主義、口頭弁論主義の原則に適合するものであることはいうまでもないが、法律判断の対象となる事実が認定されており、裁判所の法律判断だけが残されている場合には、事実について当事者に争わせ、事実の取調をする意義を認めることができないから、このような場合には、改めて事実の取調をするまでもなく、刑訴法四〇〇条但書によつて、控訴裁判所がみずから有罪の判決をすることができるものと解するのが相当である。そこで、同法四一〇条二項により、右判例を変更し、原判決を維持することとする。
したがつて、右判例違反の論旨は理由がなく、原判決に訴訟手続上の違反があるものとは認められないから、その違反があることを前提とする右違憲の論旨も、その前提を欠き、理由がないものといわなければならない。
なお、右論旨に関連するその余の論旨は、左記(一)および(二)に記載するとおりであるが、その各項において説示するところにより、いずれも理由がないものといわなければならない。
(一) 論旨は、原審が、本件「悪徳の栄え(続)」の猥褻性を判断するにあたり右文書に対する社会一般人の読後感あるいはそれへの影響の有無、程度につき事実の取調をしなかつたのは、前記昭和三一年七月一八日の大法廷判決等に違反すると主張する。
しかし、現行法の下においては、文書が猥褻性をもつかどうかは、裁判官がその文書自体につき社会通念にしたがつて判断するところに任されていて、この判断は法律判断というべきであり、前説示によれば、本件においては、第一審判決が犯罪事実の存在を確定している場合であると認むべく、原審は、第一審裁判所が取り調べた証拠によつてただちに判決することができると認めるならば、さらに事実の取調をすることなく有罪の判決を言い渡すことができるし、もともと、右のとおり、文書が猥褻性をもつかどうかは、裁判官が社会通念にしたがい判断するところに任されているのであるから、裁判官が、社会通念がいかなるものであるかを知るために、一般人の読後感等を知ることは好ましいことではあるが、それは、あくまでも参考としての意味をもつに過ぎないものである。したがつて、右判例違反の主張は、その前提を欠くものといわなければならない。
(二) 論旨は、原審が、(イ)文書の猥褻性の判断につき、第一審裁判所よりさらに明確に相対的猥褻の概念を認めながら、猥褻性を認めるについて関連がある社会的事実である文書の出版および販売方法、読者層の範囲やその程度、階層等につき公開の法廷で直接事実の取調をせず、また、(ロ)文書のうち猥褻性ありとされる部分と文書全体との関係について、いわゆる全体説の立場を採りながら、文書の猥褻性の判断の前提となる事実である文書の芸術性・思想性の有無、程度、作者の問題を取り扱う真面目な態度等につき、公開の法廷で直接事実の取調をしなかつたのは、それぞれ、猥褻性の判断について適法な証拠によらず、ないしは適正な手続を経なかつたものであつて、憲法三一条および三七条に違反すると主張する。
しかし、原審は、本件において猥褻性の判断にあたり相対的猥褻の概念による立場を採つておらず、また、前説示のとおり、本件においては、第一審判決が犯罪事実の存在を確定している場合と認めるべきであるから、原審は、第一審裁判所が取り調べた証拠によつてただちに判決することができると認めるならば、さらに事実の取調をすることなく有罪の判決を言い渡すことができるわけである。したがつて、右各憲法違反の主張は、その前提を欠くものといわなければならない。
同第三点について。
論旨は、原判決が、文書の個々の章句の部分の猥褻性は、文書全体との関連において判断すべきものであるとしながら、本件「悪徳の栄え(続)」について、その芸術性・思想性、作者・訳者の執筆態度、原判決摘示の一四個所の部分の位置関係などについて、なんらの判断も示していないこと、および本件「悪徳の栄え(続)」が猥褻性をもつものであるとしたのは、刑法一七五条の解釈適用を誤つたものであるというのであるが、右後段は、論旨第一点に関連して既に判断したところであり、右前段は、単なる法令違反の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。
よつて、同法四〇八条により本件各上告を棄却することとし、主文のとおり判決する。
この判決は、裁判官下村三郎の補足意見、裁判官岩田誠の意見および裁判官横田正俊、同奥野健一、同田中二郎、同色川幸太郎、同大隅健一郎の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。
裁判官下村三郎の補足意見は、次のとおりである。
わたくしは、田中裁判官がその反対意見で、多数意見の判示と昭和三二年三月一三日の大法廷判決(いわゆるチャタレー事件の判決)のとつた基本的立場との関係について表明しておられる疑問に対し、わたくしなりの意見を述べておきたいと思う。
田中裁判官は、「刑法一七五条にいう猥褻の概念は、言論表現の自由や学問の自由を保障する憲法との関係で、どのように理解されるべきであるかの問題……について、多数意見は、原審が、昭和三二年三月一三日の大法延判決(いわゆるチャタレー事件の判決)に従つて、猥褻性と芸術性・思想性とは、その属する次元を異にする概念であり、芸術的・思想的の文書であつても、これと次元を異にする道徳的・法的の面において猥褻性を有するものと評価されることは不可能ではなく、その文書が、その有する芸術性・思想性にかかわらず猥褻性ありと評価される以上、刑法一七五条の適用を受け、その販売および所持が罪とされることは当然である旨判示したのを、支持すべきものとしている。……ところが、本判決の多数意見は、これに加えて、『もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられる』としているが、この表現は、猥褻概念の相対性を認める趣旨なのであろうか。多数意見の中には、そのほかにも、猥褻概念の相対性を認めるかのごとき表現が窺われるのであるが、若し、そうだとすれば、チャタレー判決のとつた基本的立場を一歩踏み出し、猥褻概念の相対性を認めつつ、結論において、チャタレー判決に従つた原判決を支持するというのであろうか。多数意見の説示には、二つの考え方が混淆し、必ずしも首尾一貫しないものがあるように思われる。」と主張されるのである。
原判決が刑法一七五条の文書の猥褻性と芸術性・思想性との関係について、前記チャタレー事件の大法廷判決の見解にしたがい、多数意見もこれを支持していることは、田中裁判官の所説のとおりである。
しかし、わたくしは、多数意見は、チャタレー事件の大法廷判決がとつた基本的立場を一歩踏み出しながら、結論において、チャタレー事件の大法廷判決にしたがつた原判決を支持しているというような思考の混淆を犯していることはないと考えるし、また、多数意見は、猥褻概念の相対性を認めたものであるといいうるかどうか、にわかに断定できないものと考える。以下にその理由を説明する。ただ、ここで付言しておきたいことは、多数意見および以下の説明において、「猥褻性」という用語は、猥褻な性質を帯有する一般の場合と刑法一七五条によつて処罰の対象とすることができる程度の猥褻な性質を帯有する場合とを包含して用いられているということで、その区別は、行文上おのずから明らかになつているものと考える。また、多数意見および以下の説明において、芸術的価値があるとか、思想的価値があるとかいうのは、たとえば、東西を通じ文学史あるいは思想史の研究に不可欠の価値がある古典的作品であるとか、それほどでなくても、ある国ある社会で最高の声価を得ている文芸書とかいう場合のように、一定の評価を与えられている場合をいい、単に、芸術性があるとか、思想性があるとかいう場合と異なる用語であるということである。
(一) 多数意見がチャタレー事件の大法廷判決のとつた基本的立場を一歩踏み出しているとの点について。
チャタレー事件の第二審判決(昭和二七年一二月一〇日東京高等裁判所判決、高等裁判所刑事判例集五巻一三号二四二九頁)の理由のうちには、文学書と猥褻の文書との関係について、「尤も、文学書の芸術性がその内容の一部たる性的描写による性的刺戟を減少又は昇華せしめて、猥褻性を解消せしめ、或いは、その哲学又は思想の説得力が性的刺戟を減少又は昇華せしめて猥褻性を解消せしめる場合があり得ることは考えられるのであつて、かかる場合には、多少の性的描写があつても、『猥褻文書』に該当しないこととなるのである。しかし、文学書の芸術性やその哲学又は思想の説得力が未だその内容の一部たる性的描写による性的刺戟を減少又は昇華せしめるに足りない場合もあり得べく、かかる文学書は、未だもつて『猥褻文書』の域を脱しないものというべきである。」(前記判例集二四四八頁)との記載があり、起訴の対象となつた「チャタレー夫人の恋人」の翻訳本について、「もとより、本件訳書は、その原作者ロレンスの序文や翻訳者たる被告人伊藤整のあとがき等によつて明らかなとおり、その内容全体から見れば、ロレンスの真摯なる探究心の下に性に関する哲学又は思想を展開し、性を罪悪感から解放し、正しく理解せしめる意図をもつて書かれていることを知り得るのであり、この点に関する思惟的刺戟を与えられると共に、性的描写の部分もいわゆる春本と違つた文学的美しさがあり、その分量もいわゆる春本と異り全体の十分の一程度に過ぎず、いわゆる春本程の極度の猥褻性がないことは認められるけれども、本件訳書中の性的描写は余りにも露骨詳細であるためこれによる過度の性的刺戟が解消又は昇華されるに至つておらず、その芸術的価値又は原作者の意図の如何にかかわらず、文学において許される前記説明の一定の限界をも超えているものと解することができる。」(前記判例集二四五一頁)として、猥褻の文書にあたるものと判断しているのである。
チャタレー事件の上告審においては、弁護人らは、もとより、「チャタレー夫人の恋人」の翻訳本を猥褻の文書と判断した第二審判決の結論が違憲違法であることを上告趣意としたが、第二審判決のうち、右に引用した「チャタレー夫人の恋人」の翻訳本の猥褻性を判定するにあたりその芸術性・思想性を考慮した部分については、被告人らに有利な判断であるためか、その部分に不合理ないし違法があるとして上告趣意で取り上げていない。したがつて、チャタレー事件の大法廷判決でも、具体的にはその部分を肯認する判示はないが、「原判決が本件訳書自体を刑法一七五条の猥褻文書と判定したことは正当である」として、起訴の対象となつた「チャタレー夫人の恋人」の翻訳本を猥褻の文書と判断した第二審判決を支持しているし、進んで、「チャタレー夫人の恋人」は、全体として芸術的・思想的作品であり、その故に英文学界において相当の高い評価を受けていることを認めた上、作品の芸術性と猥褻性との関係について、「高度の芸術性といえども作品の猥褻性を解消するものとは限らない。」、「芸術的作品は客観的、冷静に記述されている科学書とことなつて、感覚や感情に訴えることが強いから、それが芸術的であることによつて猥褻性が解消しないのみか、かえつてこれにもとづく刺戟や興奮の程度を強めることがないとはいえない。」と判示している(右大法廷判決は、作品の芸術性のみを挙げているが、思想性についてもあわせて説示していると考えてよいであろう。以下同じとする。)。したがつて、チャタレー事件の大法廷判決は、右判示部分の反面の理を説明した第二審判決のうちの前記引用部分の趣旨もこれを是認しているものと解しても、誤りはないものということができるであろう。そして、本判決の多数意見の判示のうち、田中裁判官がその一部を引用されている「もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられるが、右のような程度に猥褻性が解消されないかぎり、芸術的・思想的価値のある文書であつても、猥褻の文書としての取扱いを免れることはできない。」との部分は、チャタレー事件の第二審判決のうちの前記引用部分とその趣旨を同じくするから、多数意見の右判示のうち田中裁判官が引用されている前記部分は、同裁判官所説のようにチャタレー事件の大法廷判決がとつた基本的立場を一歩踏み出しているものということはできないであろう。
(二) 多数意見が思考の混淆を犯しているとの点について。
多数意見の判示がチャタレー事件の大法廷判決がとつた基本的立場を一歩踏み出しているものでないことは、右(一)において明らかにしたところである。したがつて、一歩踏み出していることを前提とし、思考の混淆を犯しているとされる田中裁判官の多数意見に対する非難は当たらないものと考えるが、念のため、多数意見が弁護人らの上告趣意第一点につき(一)として判示した部分につき、多少の説明を加えておきたいと思う。
刑法一七五条の文書についての猥褻性と芸術性・思想性との関係について原判決がその見解にしたがうことを明らかにした前記チャタレー事件の大法廷判決は、「本書が全体として芸術的、思想的作品であり、その故に英文学界において相当の高い評価を受けていることは上述のごとくである。本書の芸術性はその全部についてばかりでなく、検察官が指摘した一二箇所に及ぶ性的描写の部分についても認められないではない。しかし芸術性と猥褻性とは別異の次元に属する概念であり、両立し得ないものではない。猥褻なものは真の芸術といえないというならば、また真の芸術は猥褻であり得ないというならば、それは概念の問題に帰着する。……芸術的面においてすぐれた作品であつても、これと次元を異にする道徳的、法的面において猥褻性をもつているものと評価されることは不可能ではない……。我々は作品の芸術性のみを強調して、これに関する道徳的、法的の観点からの批判を拒否するような芸術至上主義に賛成することができない。」と判示したが、次元という用語がいささか難解であるため、右引用の判示もいささか難解であるが、この場合、次元とは、ある事物を観察して判断評価を下すについて基礎となる立場と解するのを相当とし、右引用の判示も、要は、芸術的面においてすぐれた作品であつても、その作品が猥褻性をもつものと評価されるならば、その猥褻性に着眼して、猥褻の文書として処罰の対象とすることができるとの趣旨を明らかにしたものと解されるのである。多数意見が、チャタレー事件の大法廷判決の見解によれば、「芸術的・思想的価値のある文書であつても、これを猥褻性を有するものとすることはなんらさしつかえのないものと解せられる。」と判示したのは、右の趣旨にもとづくものである。
右のように、猥褻性と芸術性・思想性とは別異の次元に属する概念であると考えられるが、その間なんらの関係がないわけではない。芸術性・思想性をもつ文書のうちに猥褻性が存するとき、その猥褻性は、芸術性・思想性によつて減少・緩和される場合もあるし、却つて増大亢進する場合もありうるのである。たとえば、猥褻に関する事項の描写についていえば、素描・寓意の手法によれば、多くの場合猥褻性が減少・緩和されるであろうし、密描・写実の手法によれば、多くの場合猥褻性が増大・亢進するであろう。多数意見が、「もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられるが、右のような程度に猥褻性が解消されないかぎり、芸術的・思想的価値のある文書であつても、猥褻の文書としての取扱いを免れることはできない。」と判示したのは、右説示の理の一部を明らかにしたものである。
文書の猥褻性と芸術性・思想性は、右のように密接な関係にはあるが、文書の芸術性・思想性ないし芸術的・思想的価値を強調して、これらにもとづいて猥褻の文書であるかどうかを決すべしとするような諸説は、多数意見の採用しないところである。多数意見が、「当裁判所は、文書の芸術性・思想性を強調して、芸術的・思想的価値のある文書は猥褻の文書として処罰の対象とすることができないとか、名誉毀損罪に関する法理と同じく、文書のもつ猥褻性によつて侵害される法益と芸術的・思想的文書としてもつ公益性とを比較衡量して、猥褻罪の成否を決すべしとするような主張は、採用することができない。」と判示したのは、右の説示を明らかにしたものである。
前記(一)および以上の説示によつて、多数意見が弁護人らの上告趣意第一点につき(一)として判示した部分には、田中裁判官が説示されるような思考の混淆を犯しているようなところはないと考える。
(三) 多数意見が猥褻概念の相対性を認めているとの点について。
右(一)で説示したとおり、本判決の多数意見の判示のうち、前記田中裁判官が引用されている「もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられる」という部分が、チャタレー事件の大法廷判決の基本的立場を一歩踏み出しているものとは認められず、また、右(二)で説示したとおり、多数意見が弁護人らの上告趣意第一点につき(一)として判示した部分に思考の混淆を犯しているようなところがないと認められる以上、右引用部分が猥褻概念の相対性を認める趣旨かどうかについて意見を述べる必要もないように思われるが、わたくしの一応の意見を述べておきたいと思う。
田中裁判官は、チャタレー事件の大法廷判決は、猥褻概念の相対性を認めていないことを前提としておられるようであるが、右大法廷判決は猥褻概念の相対性を認めるとも、認めないとも判示していない。また、本件における弁護人らの上告趣意その他をみても、猥褻性を判定するにつき当該文書の内容をどういう事項と相対的に考察すべきかということについては、種々の主張があるようである。さらにまた、これらの所説は、主として猥褻の文書の頒布または販売行為に向けられているように思われるが、本件でも起訴されている販売の目的をもつてする所持の行為に適用される場合も同様であるのかどうかも、明らかにされていない。本判決の多数意見の判示中、弁護人らの上告趣意第二点に対する判断のうちに、「原審は、本件において猥褻性の判断にあたり相対的猥褻の概念による立場を採つておらず、」という部分があるが、これは、原審は、本件において猥褻性の判断にあたり、弁護人らの主張するような相対的猥褻の概念による立場を採つていないという趣旨を明らかにしたに過ぎないものと考える。
ただ、各種の所説をみて、わたくしの考えるところでは、猥褻概念の相対性を認める、すなわち、猥褻性を相対的に考察するということは、その文言の意義から推して、当該文書につき、その文書外に存する事実あるいは評価との関連においてその文書の猥褻性を考察するものと解するのが相当ではないかと思う。この見地からみれば、少なくも、前記田中裁判官が引用されている判示部分は、猥褻性を相対的に認めたものということはできないのではないかと思われる。けだし、本件においては、本件訳書が猥褻性を有するとともに芸術性・思想性を有するものであることは、当事者の間に争いがなく、多数意見も、本件訳書が芸術性・思想性を有するものであることを否定するものではない。そして、この三者は、本件訳書のうちに融合一体をなしているものというべく、三者相互にその影響を受けて生成され、存続するのであつて、かように相互に影響を受けてもなお、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させるに至つていないと判断するのである。すなわち、いわば処罰の対象とされた文書自体のなかに存する各要素を統合的に考察する、むしろ統合的に考察せざるをえない状態にあるからである。これをも猥褻概念の相対性を認めたものとするならば、それは猥褻概念の相対性という用語の相違に帰することとなるであろう。したがつて、前記田中裁判官が引用されている判示部分が猥褻概念の相対性を認めた趣旨であるかどうかの断定は、差し控えたいと思う。
裁判官岩田誠の意見は、次のとおりである。
私は、結論において多数意見に同調するものであるが、弁護人大野正男ほか三名の上告趣意第一点および第三点について、私かぎりの意見を述べたい。
ある文書が芸術的・思想的若しくは学問的に価値があるものであつても、同時に刑法一七五条にいう猥褻の文書であり得ることは、多数意見の判示するとおりである。しかし、右のような文書が少しでも猥褻性を有するとき、これを頒布し、販売し、公然陳列することは、その方法の如何を問わず、刑法一七五条の罪となるとする見解は、芸術的・思想的若しくは学問的に価値ある文書の発表を一律に禁止することになり、表現の自由を侵害することになる虞があるから不当であるとともに、その文書が芸術的・思想的・文学的に高い価値があれば、そのために猥褻性が全く解消される場合は格別、なお同時に猥褻性があつても、常に刑法一七五条の罪を構成することはないとの見解も不当である。
芸術・思想・学問等社会的価値あると同時に猥褻性をも有する文書を頒布、販売その他公表する行為が刑法一七五条の罪を構成するか否かは、この文書の公表により猥褻性のため侵害される法益と、これが公表により、社会が芸術的・思想的・学問的に享ける利益とを比較衡量して、猥褻性のため侵害される法益よりもその文書を公表することにより社会の享ける利益(公益)の方が大きいときは、その社会の利益(公益)のためにその文書を公表することは、刑法三五条の正当な行為として猥褻罪を構成しないものと解すべきものと思う。
したがつて、右のような文書が芸術的・思想的・学問的価値の高いものであることが立証されても、それを公表することにより、社会が芸術上・思想上・学問上享ける利益(公益)がその文書の猥褻性のため侵害される法益(社会に与える弊害すなわち不利益)より大きいことが立証されなければ、右文書の公表は猥褻罪を構成するものといわなければならない。そして、右のような文書を公表することが社会の利益であるか否か、また、右文書の公表により生ずる公益と侵害される法益との比較衡量は、その文書の有する価値性並びに猥褻性の度合、その公表の方法その他諸般の事情に基づき、社会通念に従つて判定すべきことである。
これを本件について見るに、本書「悪徳の栄え(続)」が、サドの代表作の訳本であつて、本書を全体として見た場合、思想的・文学的に価値ある作品であることは、検察官においてもこれを争わず、第一審判決もこれを認めているのであるが、本書「悪徳の栄え(続)」はこれを全体として読んだ場合においても、刑法一七五条にいわゆる猥褻の文書たる性質を有することは、多数意見のいうとおりである。
ところで本書は、普通の文芸書として一般普及を目的として出版・販売され、読者層も特に限定されていなかつたものであり、現実にも本書の読者が社会一般の各層に亘り、その年令も広い世代に及んでいることは、第一審判決および原判決の肯定しているところであつて、本書は何人でも容易に入手できるものである。しかも、原判決摘示の本書の一四ケ所の部分は、これを本書全体との関連において見ても、性交・性戯に関する露骨で具体的かつ詳細な性的場面の描写記述であり、一般普通人の性慾を徒らに興奮または刺戟し正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反するものであつて、これが一般読者に及ぼす弊害は、これを軽視し得ないものがあることに鑑みると、本書の出版販売により社会が享ける利益をもつては到底右弊害を償うに足りないと思料する。それ故、本書を前記のような出版方法により販売した被告人らは刑法一七五条の罪責を免れることはできない。したがつて、被告人らに右罪責を問うたからといつて、所論憲法に違反するものでないことは多数意見の判示するとおりである。
裁判官横田正俊の反対意見は、次のとおりである。
弁護人大野正男外三名の上告趣意第一点および第三点について。
一 刑法一七五条が、わいせつの文書を頒布もしくは販売した者、または販売の目的をもつてこれを所持した者を処罰することとしているのは、過度な性的刺戟を伴う文書が、人間の本能に由来する性的欲求に迎合し、性的道義観念に悪影響を及ぼし、正常な性的社会秩序を乱すおそれが多いことにかんがみ、刑罰をもつてその頒布、販売および販売の目的をもつてする所持(以下、頒布行為等という。)を禁止するにあるものと解される。しかし、人間と性欲の関係には深刻かつ微妙なものがあるので、正常な性的社会秩序の維持は、究極的には宗教、道徳その他社会的良識にまつべきものであることに思いを致すならば、性的刺戟を伴う文書(以下、性的文書という。)についても、処罰の対象となる行為は厳にこれを制限することが望ましいものというべきである。また、言論、出版その他一切の表現の自由は憲法二一条の保障するところであり、性的文書の頒布行為等といえども右保障の例外ではなく、しかも、この表現の自由は憲法の保障する自由のうちでもきわめて重要な地位を占めるものであることにかんがみれば、性的文書についても、表現の自由を必要以上に制限することがないよう十分な配慮がなされなければならない。そして、以上述べたところは、刑法一七五条の適用範囲を判定するに当つても、また違反行為の可罰性を論ずるに際しても、考慮されるべきであると考える。
二 刑法一七五条にいうわいせつの文書とは、抽象的には、また他の要件を問題外とすれば、昭和三二年三月一三日の大法廷判決(いわゆるチャタレー判決)にしたがい原判決が判示するように、読者の性欲をいたずらに刺戟し、興奮させる性質をもつ文書をいうと定義してよいであろう。そして、そのわいせつ性の有無は、本件訳書のごとき一般向けの出版物については、正常な一般社会人を基準にこれを判断すべきであるとする原判決の判断も正当である。問題は、本件訳書が、(い)右にいうわいせつの文書に該当するかどうかということ、および(ろ)被告人らの本件行為に可罰性を認めることができるかどうかということである。これらの点について、私は、次のとおりに考える。
(い) 本件訳書のわいせつ性について。
まず、留意しなければならないことは、本件訳書がわいせつの文書に該当するかどうかは、検察官がとくに指摘する一四か所の部分だけでなく、作品全体を通じてこれを判定する必要があるということである。すなわち、わいせつの概念は相対的なものであるから、その作品の一部分のみを摘出すればわいせつ性を帯びていると認められる場合においても、作品の他の部分との関連においてそのわいせつ性が減殺され、結果において、読者の性欲をいたずらに刺戟し、興奮させることとならないときは、その作品をわいせつの文書ということはできない。この点について原判決もほぼ同様の見地に立つていると認められるが、それにもかかわらず、原判決は、本件訳書は、検察官指摘のわいせつ性のある部分があるため作品全体としてわいせつの文書たることを免れないものとしている。しかし、私は、次に述べる理由により、本件訳書をわいせつの文書と断定するについて大きな疑義をもつのである。
本件出版物は、フランス一八世紀の作家マルキ・ド・サドの著作である「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え」の抄訳の後半部であるが、その内容のうち問題となりうる部分を、第一審判決が要領よく判示しているところにしたがつて左に摘録するならば、
(イ) 検察官の一四か所は、主人公ジュリエットを中心に、法王、貴族、警察長官、大盗賊その他さまざまな登場人物の間で次々に繰りひろげられる奇矯な姿態、方法による乱交、鶏姦、獣姦、口淫、同性愛等の性的場面であるが、
(ロ) これら性的行為の最中に、またはその前後に殺人、鞭打、拷問、火あぶり、集団殺戮等の残虐、醜悪な場面の描写が繰り返えされており、さらに
(ハ) 以上の一場面、一場面の間に、原著者マルキ・ド・サドは、ジュリエットその他の登場人物の口を通じて、自然の法理とか、政治や宗教についての彼一流の思想、哲学を語るのであるが、それは、一八世紀のヨーロッパの精神的潮流となつた素朴な進歩主義や性善説に立つ啓蒙思想、腐敗堕落したキリスト教文明に真向から挑戦し、人間性にひそむ暗黒面を徹底的に摘発し、既成の道徳、宗教、社会秩序を根底から疑い、世俗的な価値感を打破して、人間性の本質に迫ろうとするものである(これがため、本書は思想小説ともいわれている。)。
ところで、作品は全体としてこれをみるべきであるとの前示見解にしたがい、右のごとき内容をもつ本件訳書がわいせつの文書に該当するかどうかを判断するに、本件訳書の内容のうち前示(イ)に摘録した部分(訳書中に占める部分は十分の一程度。)のうちには、それのみを摘出すればわいせつ性を帯びているもののあることは否定しえないが、それとても、その内容は概して空想的、非現実的、異常的であり、その表現方法も幼稚で古くさく、硬く無味乾燥であつて、わいせつ的情緒性に乏しいばかりでなく、右(イ)の部分と同時的に、またはこれに前後して、前示(ロ)に摘録した残忍、醜悪な場面が描写されているため、一般読者にわいせつ感とは異質の強い不快の念を抱かせ、そのために、(イ)の描写により一般読者に与えられるはずのわいせつ感が著しく減殺されていると認められる。性行為に伴う異常さ、醜悪さ、残虐さなどは、それが適度に止まる場合には、通常人を基準にした場合においても、性欲を刺戟し、興奮させる効果を伴うが、本件訳書におけるそれらは、その限度をはかるにこえているものと思われる。そればかりでなく、本件訳書の前示(ハ)に摘録した部分、すなわち、原著者マルキ・ド・サドが登場人物の口を通じて彼一流の思想、哲学などを語る部分が本件訳書中の相当部分を占めていることも、本件訳書をいわゆる春本のたぐいとは著しくその趣を異にするものにしており、本件訳書を全体としてみた場合に、そのわいせつ性を減殺することに大いに役立つていることを見逃すことはできない(むしろ、前示(イ)および(ロ)の部分が(ハ)の部分と不可分的に結び付いていることが、本件訳書の思想性、芸術性を高めていると認められること、後述のとおりである。)。
要するに、前示(ロ)および(ハ)の部分の存在によつて、本件訳書は、これを読む者の性欲をいたずらに刺戟し、興奮させることとはならないものと認められるので、本件訳書を刑法一七五条にいうわいせつの文書と断定することは困難である。
しからば、本件訳書をわいせつの文書と認め、被告人らを有罪とした原審は、刑法一七五条の解釈、適用を誤つたものであるから、論旨は理由があり、原判決は刑訴法四一一条一号により破棄を免れない。
(ろ) 被告人らの行為の可罰性について。
本件訳書がわいせつ文書に該当しないとすれば、進んで被告人らの行為の可罰性を論ずる要はないこととなるが、わいせつの概念は相対的なものであるから、多数意見のように、本件訳書はわいせつの文書に該当するという見解も必ずしも成り立ちえないではない。しかし、仮りにそのような見解をとつたとしても、私は、本件の場合においては、被告人らの行為の可罰性を否定するのが相当であると考える。その理由は、次のとおりである。
(イ) ある作品の一部にわいせつ性を帯びた部分があるが、その作品に思想性、学術性、芸術性などが認められる場合において、そのわいせつ性のある部分を除外しても、その作品の思想性等が損なわれないときは、わいせつ性のある部分を削除することにより、表現の自由が不当に制限されるという問題は起らないものと思われる。しかし、わいせつ性のある部分を除外することによつてその作品の思想性等が損なわれるときは、わいせつ性のある部分を削除することは、その作品自体についてその表現の自由がおのずから制限されることになるものといわなれけばならない。すなわち、後の場合には、わいせつの文書の頒布行為等を許してはならないとする要請と、思想性等のある文書についての表現の自由の要請をいかに調整すべきかが重大な問題となる。そして、私は、抽象的にいえば、前の要請を後の要請に優先させるのを相当とする場合には、思想性等のある文書といえども、その頒布行為等を禁止すべく、これに反し、後の要請を前の要請に優先させるのを相当とする場合には、わいせつの文書の取締りということを犠牲にしても思想性等のある文書の頒布行為等を許し、その可罰性を否定するのが相当であると考える。そして、具体的事案において、いずれの要請を優先させるべきかは、諸般の事情、とくに左の点を十分にしんしやくしてこれを判定すべきものと考える。
(1) わいせつの概念は抽象的かつ相対的なものであるから、性的文書にわいせつ性のあるものとないものとの区別があるように、わいせつ性のある文書にも、わいせつ性の強いものと弱いものとの区別があると思われる。わいせつ性が強いとは、抽象的には、読者の性欲を著しく刺戟し、興奮させる性質を伴うことをいうが、この度合は、本件訳書のごとき一般向けの出版物については正常な一般社会人を基準にしてこれを決定すべきである。そして、わいせつ性の強い部分を含む作品については、わいせつ文書取締の要請を優先させ、作品全体の頒布行為等を禁止することも已むをえないものと考える。いわゆるチャタレー裁判の対象となつた作品のごときは、この部類に属するものではないかと思われる。
(2) わいせつ性の弱い部分を含む作品については、それが作品のうちで占める重要度が作品のもつ思想性等の重要度より高いときは、わいせつ文書取締の要請を優先させ、作品全体の頒布行為等を禁止することも已むをえないものと考える。これに反し、作品のもつ思想性等の重要度がわいせつ性のある部分の占める重要度より高いと認められる場合には、表現の自由に対する要請を優先させ、その作品の頒布行為等を許し、その可罰性を否定すべきものと思う。そして、この重要度が高いかどうかは、単に分量的にではなく、作品全体を通じて質的にこれを判定しなければならず、ことに表現の自由の保障は、われわれ個人が価値ありと信ずるところを自由に表現することができ、したがつて他人にそれを知る自由が与えられるところにその意義があるのであつて、その表現される内容が真に価値のあるものであるかどうか、真に優秀なものであるかどうかは必ずしも問うところではないことに留意しなければならない。したがつて、裁判所は作品のもつ思想性等の重要度を判断するに当つても、必ずしもその作品の真の価値や優秀性を判定する要はないのであつて、表現の自由を保障する憲法の趣旨にかんがみ、弱いわいせつ性のある部分とともに、その作品全体を公表することに意義が認められる程度の思想性等が具備しているかどうかを判断すれば足り、また、この程度の判断をすることは必要である。以上のようにして、裁判所は、作品の真の価値や優秀性を判定する必要はなく、また、作品に思想性等が認められたからといつて、その頒布行為等を許容しなければならないものではない。たとえば、いわゆる春本にも思想性等を伴うものがありえようが、そのような思想性等が作品において占める重要度は、通常、わいせつ性のある部分の占める重要度より高いとは考えられないから、その頒布行為等は許されるべきではない。また、わいせつの文書としての取締を免れるためことさらに思想性等のある部分を付加したようなものも同様であり、作品がそのようなものであるかどうかは、著作者の作品に対する態度、発行者の販売方法その他の事情から容易にこれを知ることができるであろう。
要するに、以上に述べた程度の判断は、裁判所としてこれをしなければならず、また、よくすることができるものと信ずる。この意味において、原判決が、裁判所は文書のわいせつ性を判断する職責を有するが、文書のもつ思想性等を判断する職責はないと判示しているのは、いわゆるチャタレー判決に倣つたものであるが、右に説示したところにてい触する限度において正当ではなく、憲法二一条の表現の自由の要請を過少評価したものというほかはない。
(ロ) これを本件につきみるに、本件訳書の原著「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え」が一般に思想小説といわれ、右著作を初めとするサドの著作が、フランス文学史の空白を埋めるものとして高い評価をえつつあるばかりでなく、その革命思想ないしユートピア思想は、社会思想史的分野でも、また医学心理学的領域でも、さらにシュールリアリズム、実存主義のごとき今世紀に抬頭した芸術運動、思想運動中でも、きわめて重要な意義を認められつつあること、および本件訳書の原著作は、サドの思想を最も完全な形で現わしたものであつて、サドの研究にとつて欠くことのできないものであることは、第一審における専門家証人の証言に基づき第一審判決が認定判示しているとおりである。そして、本件訳書の右のような思想性、芸術性は、前示(い)の摘録(ハ)の部分によつて明らかにされているのであるが、同摘録(イ)の部分(および(ロ)の部分)は、右(ハ)の部分と不可分的に結びついて作品の思想性、芸術性を高めていると認められるから、(イ)の部分を削除すれば本件作品の前示のような思想性、芸術性はおのずから損なわれることとなるものといわなければならない。しかも、本件訳書の前示摘録(イ)の部分につき仮りにわいせつ性が認められるとしても、さきに(い)において説示したところに照せば、そのわいせつ性は弱いものというほかはなく、本件訳書において右わいせつ性のある部分の占める重要度は、思想性、芸術性のある部分の占める重要度に比し低いものといわなければならない。そうであれば、表現の自由を尊重する立場から、本件訳書は、いわゆる専門家に対してはもちろん、一般社会人に対しても、これに接する機会を与えることが相当であり、したがつて、本件訳書を販売し、または販売の目的でこれを所持した被告人らの行為に可罰性を認めることは相当なこととは思われない。しからば、被告人らの右行為に対し刑法一七五条を適用して有罪の判決をした原審は、憲法二一条の解釈を誤つた結果、刑法一七五条の適用を誤つたものと認められるから、所論は理由あるに帰し、原判決は破棄を免れない。
三 よつて、原判決を破棄し、刑訴法四一三条但書に則り、被告人らに対し無罪の判決をするのが相当であると思料する。
裁判官大隅健一郎は、裁判官横田正俊の右反対意見に同調する。
裁判官奥野健一の反対意見は、次のとおりである。
弁護人大野正男ほか三名の上告趣意第一点および第三点について。
刑法一七五条の猥褻物に関する罰則は、主として所謂春画、春本、エロ映画の類を取締の対象として規定されたものと思われる。しかし、芸術的、思想的、文学的の文書、図画等であつても、同時に猥褻性を有するもののあることも否定できないところである。本書「悪徳の栄え」の内容には、各所に性欲を刺戟、興奮せしめる場面の記述があり、読者をして性的道義観を頽廃せしめる虞なしとしないと思われる点のあることは認めざるを得ない。従つて、この点より観れば、本書は猥褻文書に該当する面のあることは否定できないところである。なお、本書には性的場面の描写と一体として、または、その前後に接続して、残忍、醜悪なる場面の描写がなされているが、これがため猥褻性を抹消、消失せしめるものではなく、却つて、性欲の刺戟、興奮を助長せしめる結果となつている。
しかし、本書「悪徳の栄え」は、サド文学の代表的思想小説であるとされており、本書を全体的にみた場合に、思想的、文学的に価値ある作品であることは検察官においても、これを争わず、また、第一審判決も本書の芸術的、思想的意義のあることを認めている。作品が、猥褻的であることと芸術的、思想的、文学的であることとは、必ずしも相排斥する二者択一的なものではなく、芸術的、思想的、文学的作品であり、それ故、それが社会的価値あるものでありながら、同時に猥褻的なものである場合があり得るのである。かかる場合に、その作品の猥褻性の面のみに着目して、その出版、販売を禁止し、その違反行為を処罰することは、その作品の持つ芸術的、思想的、文学的の価値について、一般人のこれを享受する権利を奪うことになり、延いては、著作者の表現の自由を侵害することになる。従つて、外国の立法例、判決例において、芸術、思想、科学等社会的価値ある作品は猥褻罪として処罰しない、とする例が多く見られる所以である。
わが刑法二三〇条ノ二は、人の名誉を毀損する言動であつても、それが公共の利害に関する事実に係り、専ら公益を図る目的でなされた場合に、事実の真実であることが証明されたときは、名誉毀損罪として、これを処罰しない、と規定している。かかる法理は、表現に関する犯罪と、その表現の持つ社会的価値ないし公益性との関係について、一般に妥当する超法規的違法阻却の事由であると考えられる。すなわち、ある作品が猥褻性を帯びるものであつても、同時に、それが芸術的、思想的、文学的に価値があり、公共の利益に合致するものであることが、証明されたならば、最早猥褻罪として処罰すべきものではないと考えるのである。
尤も、苟も、少しでも、芸術的、思想的、文学的の価値ある作品であれば、常に猥褻罪としての処罰を免れ得るものと解すべきものではなく、その作品の猥褻性によつて侵害されると法益と、芸術的、思想的、文学的作品として持つ公益性とを比較衡量して、なおかつ、後者を犠牲にしても、前者の要請を優先せしめるべき合理的理由があるときにおいて、始めて猥褻罪として処罰さるべきものであると解する。
然るに、原判決が「裁判所の権能と職務は文書の猥褻性の存否を社会通念に従つて判断することにあつて、その文書の芸術的、思想的の価値を判定することにはなく、また裁判所はかような判定をなす適当な場所ではない。結局裁判所においては、芸術性、思想性の評価が猥褻性に関する法的評価に優先するとすることができないことは当然といわなければならない。」として、本書の芸術的、思想的、文学的価値について全然目を蔽い、その公益性について、何ら考慮、判断することなく、専ら猥褻性にのみ着目し、その芸術的、思想的、文学的価値の公益性のために、猥褻罪としての処罰を免れ得る可能性の有無について、何ら審理、判断を遂げなかつたことは、刑法一七五条の解釈を誤つた違法があるか、審理不尽の違法があるものというべきであつて、原判決は、他の論点の判断をまつまでもなく、刑訴法四一一条一号、四一三条により、破棄、差戻を免れない。
裁判官田中二郎の反対意見は、次のとおりである。
弁護人大野正男ほか三名の上告趣意第一点および第三点について判示する多数意見に対して、私は、種々の疑問を感じるのであるが、中でも、憲法の保障する言論出版その他の表現の自由や学問の自由およびこれらの自由の制限に関する基本的な考え方、したがつてまた、刑法一七五条の定める猥褻の概念の捉え方に対しては、にわかに賛成しがたい。以下、その理由について述べることとする。
一 多数意見も、「出版その他の表現の自由や学問の自由は、民主主義の基礎をなすきわめて重要なものである」ことを承認している。しかし、多数意見は、それは、「絶対無制限なものではなく、その濫用が禁ぜられ、公共の福祉の制限の下に立つものである」とし、この見地に立つて、「芸術的・思想的価値のある文書についても、それが猥褻性をもつものである場合には、性生活に関する秩序および健全な風俗を維持するため、これを処罰の対象とすることが国民生活全体の利益に合致するものと認められる」ことを理由として、これらの自由に対する制限禁止やこれに対する違反の処罰が、憲法二一条、二三条に違反するものということはできない旨判示している。
右の論理は、一見、もつともと思わせるものがあるが、この考え方の根底には、言論出版その他の表現の自由や学問の自由も、「公共の福祉」の見地からみて必要がある場合には、これを制限することができることは当然であるという、従来、最高裁判所がとつてきた伝統的な考え方が流れているように思われる。この点に、私は、まず第一の疑問を抱かざるを得ない。
私も、もとより、言論出版その他の表現の自由や学問の自由が絶対無制限のものと考えているわけではなく、したがつて、刑法一七五条が違憲無効であるとまで考えているわけでもない。しかし、言論出版その他の表現の自由や学問の自由を保障する憲法の規定(二一条・二三条)のもつ意味の評価の点において、したがつて、これらの自由に対する制約の限界に関する考え方の点において、多数意見とは見解を異にする。すなわち、憲法二一条の保障する言論出版その他一切の表現の自由や、憲法二三条の保障する学問の自由は、憲法の保障する他の多くの基本的人権とは異なり、まさしく民主主義の基礎をなし、これを成り立たしめている、きわめて重要なものであつて、単に形式的に言葉のうえだけでなく、実質的に保障されるべきものであり、「公共の福祉」の要請という名目のもとに、立法政策的な配慮によつて、自由にこれを制限するがごときことは許されないものであるという意味において、絶対的な自由とも称し得べきものであり、公共の福祉の要請に基づき法律によつて制限されることの予想されている職業選択の自由や居住移転の自由などとは、その性質を異にするものと考えるのである。表現の自由や学問の自由の保障は、これを裏がえしていえば、読み、聞き、見、かつ、知る自由や学ぶ自由の保障を意味するのであつて、国会の多数の意見や政府の見解によつて、「公共の福祉」の要請という名目のもとに、言論表現の自由がたやすく制限され得たり、学問の自由に制限が加えられ得たり、ひいては、読み、聞き、見、かつ、知る自由や学ぶ自由が抑制されたりしたのでは、民主主義の基本的原理が根底からゆすぶられ、社会文化の発展や真理の探究が不当に抑圧されることになるおそれを免れ得ないからである。
右のようにいつたからといつて、私も、決して、これらの自由が絶対無制限のものであることを主張するのではない。これらの自由にも、必然的にこれらに伴うべき内在的な制約が存することは、これを否定することができない。何がこの意味でのこれらの自由の内在的制約であるかについては、後に述べるが、この意味での内在的制約のみがこれらの自由に対する制約として承認され得る限界とみるべきであつて、この限界を超えて、「公共の福祉」の要請に基づくというような名目のもとに、立法政策的ないし行政政策的見地から、外来的な制限を課することを目的とする法律の規定やその執行としての処分のごときは、憲法の保障するこれらの自由に対する侵害として許されないところというべきである。
ところで、右にいう内在的制約とは何か、どういう制約が内在的制約として承認され得るか等の問題は、頗るむずかしい問題であり、一般的・抽象的な基準を立ててこれに答えることは困難であるが、それは、これらの自由を保障している憲法の趣旨から汲みとられるほかはない。これらの自由は、元来、これを主張する者が相互に他の自由を尊重し合い、自由の共存を認め合うことを前提とし、それが濫用にわたることなく、社会の通念を基準として、社会一般の正義道徳の観念に違反し、ひいてはこれに現実の危険を及ぼすようなことのない規律を伴う自由としてのみ保障されたものと解すべきであろう。したがつて、これらの自由を各人に保障するために必然的に伴う規律は、その内在的な制約として、これを尊重しなければならず、これに違反するのは、自由の濫用にほかならないのである。しかし、この意味での制約は、政策的見地から外来的に定められ得べきものではなく、まさに自由に内在する制約である限りにおいて、自由の制約として承認されるのである。そして、具体的に、これらの自由の内在的制約として承認されるべきものであるかどうかは、最終的には、具体的事案に即して、裁判所によつて判断されなければならない。
言論表現の自由にしろ、学問の自由にしろ、右に述べたような意味における内在的な制約に服すべきものであることは、これを認めなければならないのであつて、他人の名誉を毀損する行為とか猥褻文書を販売・頒布する行為とかを処罰の対象としているのも、右の意味での内在的な制約に反する行為を対象としている趣旨と解すべきであり、また、そう解し得る限りにおいて、その合憲性が承認されるべきものと考える。
刑法一七五条の定める猥褻罪の処罰規定も、右の言論表現の自由や学問の自由に内在する制約を具体化したものと解し得る限りにおいてのみ、違憲無効であるとの非難を免れ得るのであつて、若し、その規定が、「性生活に関する秩序および健全な風俗を維持するため、これを処罰の対象とすることが国民生活全体の利益に合致する」という理由のもとに、外来的な政策的目的実現の手段としての意味をも、あわせもたしめられるべきものとすれば、それは、もはや、自由に内在する制約の範囲を逸脱するおそれがあり、したがつて、右規定も違憲の疑いを生ずるものといわなければならない。
しかし、法律の規定は、元来、可能な限り、憲法の精神に即し、これと調和し得るように合理的に解釈されるべきものであつて、この見地からすれば、刑法一七五条の猥褻罪に関する規定は、憲法の保障する表現の自由や学問の自由に内在する制約の一つの具体的表現にすぎないものとして、憲法の諸規定と調和し得るように解釈されなければならない。そうとすれば、刑法一七五条にいう猥褻の概念も、おのずから厳格に限定的に解釈されるべきものであり、その規定の具体的適用にあたつても、言論表現の自由や学問の自由を保障する憲法の精神に背馳することのないように配慮されなければならないのである。
二 そこで、次に、刑法一七五条にいう猥褻の概念は、言論表現の自由や学問の自由を保障する憲法との関係で、どのように理解されるべきであるかの問題に移ることとする。
この点について、多数意見は、原審が、昭和三二年三月一三日の大法廷判決(いわゆるチャタレー事件の判決)に従つて、猥褻性と芸術性・思想性とは、その属する次元を異にする概念であり、芸術的・思想的の文書であつても、これと次元を異にする道徳的・法的の面において猥褻性を有するものと評価されることは不可能ではなく、その文書が、その有する芸術性・思想性にかかわらず猥褻性ありと評価される以上、刑法一七五条の適用を受け、その販売および所持が罪とされることは当然である旨判示したのを、支持すべきものとしている。
いわゆるチャタレー判決およびこの判決の趣旨に従つた本件原判決は、猥褻性の概念は、その文書の芸術性・思想性とは次元を異にするもので、法的な面においては独自に判断され得べきものとしており、多数意見も、基本的には、この見解を支持していることは前叙のとおりである。ところが、本判決の多数意見は、これに加えて、「もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて、刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられる」としているが、この表現は、猥褻概念の相対性を認める趣旨なのであろうか。多数意見の中には、そのほかにも、猥褻概念の相対性を認めるかのごとき表現が窺われるのであるが、若し、そうだとすれば、チャタレー判決のとつた基本的立場を一歩踏み出し、猥褻概念の相対性を認めつつ、結論において、チャタレー判決に従つた原判決を支持するというのであろうか。多数意見の説示には、二つの考え方が混淆し、必ずしも首尾一貫しないものがあるように思われる。
それでは、猥褻の概念は、どのように理解されてきたか、また、理解されるべきであろうか。
最高裁判所は、従来、猥褻というのは、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう」と定義し、これを具体的事件にあてはめ、右の三要素を有する文書は猥褻文書であると判断してきた。猥褻概念そのものの定義として、右の三要素をあげることに、私は、別段、反対するつもりはない。しかし、このような概念を絶対的なものとして、これを一律にあてはめ、これに該当する文書をすべて猥褻文書として処罰の対象とすべきものとする考え方が果たして妥当であるかどうかは、頗る疑問としなければならない。
およそ文書等が性若しくは性行為を題材としているときは、それが科学的・思想的・芸術的性格をもつものであつても、見方によつては、猥褻の要素を有するものが少なくないことは、通常見かけられるところであつて、この猥褻の要素を抽出し、当該文書等を直ちに猥褻文書等と断定し、これを処罰の対象とすべきものであるかどうかが、まさに問題とされなければならないのである。
この問題をどのように処理すべきかは、言論表現の自由や学問の自由の保障との関連において、内外に通じ、多年にわたつて苦悩してきたところであるから、内外の学説判例を通して、その苦悩を跡づけ、その判断を下すにあたつては、十分に慎重を期さなければならない。こういう見地に立ち、私は、次に述べるような種々の観点から、――理論上には、一応、次のような種々の観点を区別することができるが、実際上には、相互に関連性をもつており、全体を総合して判断しなければならないことはもちろんである。――猥褻概念の相対性を認めるべきものと考えるのであつて、この点において、多数意見とその見解を異にすることを明らかにしなければならない。
(1) まず第一に、猥褻文書等にあたるかどうかを判断するにあたつては、文書等そのものの面からみて、猥褻性の強弱ということが問題とされなければならないし、これを受けとつてこれを評価する人間の面からみて、どういう人間を基準とすべきかが問題とされなければならない。
猥褻という概念は、抽象的には、一応、チャタレー判決が判示しているように、「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものをいう。」といつて差支えないであろう。しかし、具体的に性若しくは性行為を題材とする文書等についてみると、多かれ少なかれ、右の猥褻概念の要素をもつものが多いのであつて、猥褻性があるといつても、その猥褻性の程度には、強弱さまざまのものがあることを否定し得ない。およそ猥褻の要素が少しでも含まれておれば、処罰の対象とされるべき猥褻文書等に該当するとはいえないであろう。また、これを受けとつてこれを評価する人間の面からいえば、普通一般には、普通人、すなわち一般社会の平均人を基準として、これを判断すべきであろうが、この場合でも、人間の性情そのものが、所によつて異なり、時とともに推移するものであり、人間をとりまく環境の相違や変化に応じて、一律には断じがたいものがある。ある時・所において猥褻文書等と判断されるべきものが、別のある時・所においては、環境等の差異に基づき、猥褻かどうかの判断に差異を生ずることも決してないわけではない。殊に、当該文書がその表現方法等からみて、科学者や文学者等、特定の者を対象としている場合のように、その向けられている対象の相違によつても、それを猥褻文書とみるべきかどうかの判断が変つてこなければならないであろう。ということは、右にあげた猥褻の定義も、これを実質的・内容的にみると、絶対不変の固定的な尺度又は基準を示すものではなく、相対的可変的なものとみるべきことを示しているものといつてよいであろう。
なお、特定の文書等の猥褻性の有無を判断するにあたつては、当該文書等を全体として判断の対象としなければならないことはいうまでもない。このことは、多数意見も、一応、これを承認しているので、ここでは、詳述することは差し控えることとする。
(2) 第二に、本件で特に重要な問題として注意すべきは、特定の文書等が有する科学性・思想性・芸術性――これらの点についても、その程度・態様等に種々ニュアンスの差があることはいうまでもない。――と当該文書等の猥褻性とは、次元を異にする問題と解すべきか、それとも、当該文書等の猥褻性は、その科学性・思想性・芸術性との関連において、相対的に判断されるべきかという問題である。この点について、最高裁判所は、さきにチャタレー判決において、文書等の科学性・思想性・芸術性と猥褻性とは、次元を異にするとして、ここでいう猥褻概念の相対性を否定してきた。ところが、本件の多数意見は、さきにも引用したように、「もとより、文書がもつ芸術性・思想性が、文書の内容である性的描写による性的刺激を減少・緩和させて刑法が処罰の対象とする程度以下に猥褻性を解消させる場合があることは考えられる」として、一見、猥褻概念の相対性を認めるかのごとき表現をしているが、これに続けて、「右のような程度に猥褻性が解消されないかぎり、芸術的・思想的価値のある文書であっても、猥褻の文書としての取扱いを免れることはできない、」といい、「当裁判所は、文書の芸術性・思想性を強調して、芸術的・思想的価値のある文書は猥褻の文書として処罰の対象とすることができないとか、……文書のもつ猥褻性によつて侵害される法益と芸術的・思想的文書としてもつ公益性とを比較衡量して、猥褻罪の成否を決すべしとするような主張は、採用することができない。」と判示し、結局、チャタレー判決に従つて、芸術的・思想的価値の有無と猥褻性の有無とは次元を異にする問題だとする原審の判断を支持しているのである。
右の多数意見は、一見、猥褻概念の相対性を否定しないかのような説示をしながら、その実は、チャタレー判決の趣旨を踏襲し、これから一歩も出てはいないようにも解されるのであつて、却つて、チャタレー判決に比して首尾一貫を欠く嫌いを免れず、この多数意見の論理および結論については、疑問を抱かざるを得ない。
もともと、性若しくは性行為を題材とする芸術作品や思想作品(科学作品も同じ。)は、色川裁判官が指摘されているように、人間の根源的な欲求の一つである性欲を追求して人間心理の深層にメスを入れ、その点にひそむ人間性を描こうとするものであるから、平凡な一般社会人の生活や感情とは相容れない事象をも題材とせざるを得ないことが少なくなく、その限りにおいて、多かれ少なかれ、猥褻性の要素を帯びることがあることも否定し得ないのであるが、他面、それによつて、人間の真の欲望や心理を浮彫りにし、時には、社会の罪悪に対する鋭い批判のメスを加えることによつて、人間性や人間関係の本質の自覚を促し、社会文化の発展の契機を与えることともなるのであつて、そうした芸術作品や思想作品等の価値を無視したり看過したりすることはできない。若し、これらの作品が猥褻性の要素をもつているというだけの理由で、その発表が禁圧されることになれば、価値の高い芸術作品や思想作品等の少なからざるものが抹殺されることになり、表現の自由や学問の自由が不当に抑圧され、文化的価値を享受する途も閉ざされることにならざるを得ないであろう。
このような点を総合して考えると、右に述べたような芸術作品や思想作品等については、それらが、たとえ猥褻性の要素をもつているとしても、作品全体としてこれを評価し、刑法一七五条にいう猥褻文書等に該当しないと解すべき場合が多いというべきであろう。この意味において、刑法一七五条にいう猥褻の概念は、一般社会の平均人を基準として判断する場合においても、その社会の文化の発展の程度その他諸々の環境の推移に照応し、その作品等の芸術性・思想性等との関連において、評価・判断されるべきもので、この意味においても、猥褻概念の相対性が認められなければならないと、私は考えるのである。
(3) 第三に、猥褻文書として処罰の対象とされるべきものかどうかは、当該文書等に客観的に現われている作者の姿勢・態度や、その販売・頒布等にあたつての宣伝・広告の方法等との関係においても、相対的に判断されなければならない。若し、その作品が、猥褻の要素にもつぱら焦点をあわせ、人間の好色心をそそることに中心を置いたような場合であれば、仮りに文書等そのものとしては科学性・思想性・芸術性が認められ、これらの点において相当の価値のあるものであつても、刑法一七五条にいう猥褻文書に該当するものといわなければならないことが多いであろうし、文書等の販売・頒布等にあたる者が、猥褻性の要素を特に抽出し、そこに焦点をあわせて宣伝・広告・陳列し、ために、当該文書等が低俗な興味の対象としてのみ受け取られるような場合には、そのことの故に、元来、科学性・思想性・芸術性をもつた、相当に価値のある作品の販売・頒布等であつても、刑法にいう猥褻文書の販売・頒布等として処罰を免れないこととなるであろう。したがつて、刑法一七五条にいう猥褻文書に該当するかどうかは、右の諸点との関連において、相対的に判断されなければならないのである。
これを要するに、刑法一七五条にいう猥褻文書として処罰の対象とされるべきかどうかの問題は、猥褻の概念を絶対普遍のものとして、一律的に判断すべきではなく、右に述べたように、種々の意味におけるその概念の相対性を承認し、そのような観点を総合的に考察して、なおかつ、猥褻文書に該当するといえるかどうかについて、慎重に判断されなければならないと考える。
三 次に、具体的に本件についてみるに、本訳書の原著「悪徳の栄え」は、マルキ・ド・サド(一七四〇―一八一四)の代表作ともいうべき作品であつて、「一八世紀ヨーロッパの精神的潮流となつた素朴な進歩主義や性善説に立つ啓蒙思想、腐敗堕落したキリスト数文明に真向から挑戦し、人間性にひそむ暗黒面を徹底的に摘発し、既成の道徳、宗教、社会秩序を根底から疑い、世俗的な価値観を打破して、人間性の本質に迫ろうとする思想小説である」とされている。本件訳書はその抄訳であつて、原著を約三分の一につづめたもので、正続二篇に分かれるが、本件で起訴されたのは、その続篇「悪徳の栄え(続)―ジュリエットの遍歴―」である。
この作品を全体としてみた場合に、思想的・文学的に価値のある作品であることは、検察官においても、これを争わず、第一審判決も、この作品の芸術的・思想的意義を認めている。ところで、この作品を全体としてみて、猥褻性を有するものといえるかどうか、その芸術性・思想性にもかかわらず、その猥褻性の故に刑法一七五条にいう猥褻文書に該当するといえるかどうか、が問題である。
この作品のうちには、ある部分だけを抽出すれば、猥褻性を帯びているもののあることは否定し得ないが、それとても、横田裁判官の指摘されているとおり、その内容は、概して、空想的・非現実的・異常的であり、むしろ、その前後に残忍・醜悪な場面の描写が続き、一般読者に猥褻感とは異質の強い不快の念を抱かせ、そのため、一般読者に与えるはずの猥褻感が著しく減殺されており、さらに、サドが登場人物の口を通じて彼一流の思想・哲学を語らせている部分が相当に多いことも、その猥褻性を減殺するうえに大いに役立つている。このような見地からいつて、本訳書は、刑法一七五条にいう猥褻の要素を十分に具有するものと断定することに大きな疑問を抱かざるを得ない。
しかし、この点はしばらくおいて、この作品が仮りにいくらかの猥褻の要素をもつているとしても、刑法一七五条にい猥褻文書に該当するかどうかは、その作品のもつ芸術性・思想性およびその作品の社会的価値との関連において判断すべきものであるとする前叙の私の考え方からすれば、これを否定的に解しなければならない。すなわち、この作品は、芸術性・思想性をもつた社会的に価値の高い作品であることは、一般に承認されるところであり、原著者については述べるまでもないが、訳者である被告人渋沢竜雄は、マルキ・ド・サドの研究者として知られ、その研究者としての立場で、本件抄訳をなしたものと推認され、そこに好色心をそそることに焦点をあわせて抄訳を試みたとみるべき証跡はなく、また、販売等にあたつた被告人石井恭二においても、本訳書に関して、猥褻性の点を特に強調して広く一般に宣伝・広告をしたものとは認められない。
以上の諸点を総合して判断すると、この作品の中に猥褻の要素が含まれているとしても、作品全体としてみた場合に、その芸術的・思想的意義が高く評価され、百数十年の長きにわたつて、幾多の波乱をまき起こしながらも、あらゆる批判に打ち克つてきた原著の抄訳たる本件訳書は、今にわかに、その猥褻性を強調して抹殺し去られるべきものではない。さきに述べたように、表現の自由や学問の自由を尊重する憲法の趣旨に照らし、国民文化の発展の程度や人間をとりまく生活環境の推移に鑑み、本書公刊の諸条件のもとに予想され得た読者層から考えて、本件訳書は、直ちに、刑法一七五条による処罰の対象としてとりあげられるべきものではなく、その販売・頒布・所持の自由は、保障されて然るべきであると考える。
然るに、本件訳書が刑法一七五条にいう猥褻文書に該当するものとして、被告人らの刑事責任を肯定した原審の判断は、憲法二一条、二三条の解釈を誤つた結果、刑法一七五条の解釈適用を誤つたものと認められるから、所論は理由があるに帰し、原判決は破棄を免れないと、私は考える。
前叙のような見地から、私は原判決を支持する多数意見の結論のみならず、その理由についても、賛成することができない。
裁判官色川幸太郎の反対意見は、次のとおりである。
弁護人大野正男ほか三名の上告趣意第一点および第三点について。
一 本件訳書は小説であるから、そのジャンルに属する読物のいかなるものが刑法一七五条にいう猥褻の文書に該当するかを考えてみるのに、大きくわけて二つになると思う。一つは端的な春本であり、他は猥褻性(猥褻とは何かが実は終局的な問題なのであるが、ここではさしあたり、原判決の依拠したいわゆるチャタレー事件最高裁大法廷判決の示すところによる。猥褻の文書の意義に関する私見は後に説くごとくである。)はあるけれども、春本のたぐいには属しないところの娯楽作品及び文芸作品である。春本は、性を玩弄享楽の具とする立場で書かれた、もつぱら性的興味をそそることを狙いとする、淫猥のための淫猥の書であつて、全篇を通ずる内容及び表現の形式から容易にその春本たる所以を知ることができるものである。春本は、もしそれが広く公衆に提供されるときは、社会の健全な性的秩序の腐敗・堕落を招来する危険を内蔵し、而も埋合せとなるべき何らの社会的価値をも有しないものであるから、まぎれもない猥褻の文書であつて、その頒布、販売が刑罰を以て禁止されるのは当然といわねばならない。これに反し前述の後者は、性を素材とし、性的行為に関する叙述を含むとはいえ、好色、淫奔な興味や関心をそそることを作品の基調とするものではない点で異質であるというべく、また、それぞれ、大なり小なりの社会的価値を有する点において春本とは決定的にその類を異にする。たとえ低俗な娯楽作品であつても、およそ娯楽が大衆社会における必須の要求である以上(娯楽のない社会がいかに索莫たるものであるかは多言を要しない。)、そこに何がしかの社会的価値の存在を認め得るのであるが、文芸作品にいたつてはなおさらであつて、質と量とにおいては作品によつてそれぞれ差異はあるにしても、そこに社会的価値の存在することは何びとも否定し得ないところであろう。小説が猥褻性をもつているからといつて、そのために帯びる反価値と、作品そのものの具有する社会的価値とを慎重に比較衡量することなく、ただちにこれを刑法一七五条にいう猥褻の文書であると判断することは許されないところと考えるのである。
ところで本件訳書は、マルキ・ド・サドの創作にかかる「悪徳の栄え」の抄訳であるところ、原著は、一審判決の認定するように「一八世紀ヨーロッパの精神的潮流となつた素朴な進歩主義や性善説に立つ啓蒙思想、腐敗堕落したキリスト教文明に真向から挑戦し、人間性にひそむ暗黒面を徹底的に摘発し、既成の道徳、宗教、社会秩序を根底から疑い、世俗的な価値観を打破して、人間性の本質に迫ろうとする」本格的な思想小説である。そうである以上、本件訳書は、端的な春本でないのは勿論、娯楽のための読物でもないわけであるから、本件においては、文芸作品と猥褻性との関係を論ずれば足りるのであるが、同時にまた、これを問題としないわけにはいかないのである。
二 多数意見は、芸術的・思想的な価値のある文書であつても、猥褻性を有する以上、猥褻の文書としての取り扱いを免れることはできないとする。性を素材とする文芸作品は、人間の根源的な欲求である性慾を追求して人間心理の深層にメスをいれ、その奥にひそむ人間性を描かんとするものであるから、姦通、同性愛、強姦、近親相姦等およそ平凡な市民生活とは相容れぬ事象をも題材とせざるを得ないことが多く、もし、筆がそれらの行為の露骨な描写に及ぶにいたつては、その作品に猥褻性が存在することを否定することはできないのであつて、一般的にいえば、多数意見の説示するごとく、芸術的な作品であると同時に猥褻の文書でもありうるわけである。しかし、およそ、世俗への妥協を拒み、神と道徳と法とを無視乃至否定し、現実の世界では許されない悖徳、乱倫の諸相を描いて、人間の真実をたずね、苦渋に満ちた悩みの底から、読者の感動をゆるがす何ものかをくみ出そうとすることこそが、近代文学の手法のひとつの特質ではないかと思われる。もしそうだとすると、露骨な形で性が扱われているというだけの理由でかかる作品が禁圧されるならば、文学の名に値する文芸作品の少なからざるものの抹殺へと途が通ずることになるのである。而して、もし、その作品が、主題において真摯、誠実であり、叙述においても、性の描写が、主題に剴切、緊密であつて抜きさしならぬ関係にあり、而も芸術としての価値が高い場合には、作品を全体として観察する以上、猥褻性昇華の現象も見られないわけではあるまい。そうである限り、かかる作品は、形の上での猥褻性の存在にもかかわらず、刑法一七五条にいう猥褻の文書ではないということができるであろう。仮に猥褻性の昇華ということが認められないにしても、かかる作品につき、猥褻性があるからといつて、その頒布、販売、ひいては事実上、その閲覧、鑑賞までも刑罰法規を以て制約することは、一国の文化領域における重大な問題であるというべきであり、その是非は、表現の自由を尊重する限り、否定的に答えられなければならないこと後に説くごとくである。
ところで、上記の如き要件は欠くにしても、とにかく一応文芸作品と認められるものについてはどうであろうか。この場合には猥褻性が昇華すると見る余地はないとしても、かかる作品における性の描写は、春本と様相を異にし、それ自体が目的ではないのであつて、多かれ少なかれ作品の主題に従属し、作者の文学的主張の展開のために必然的、もしくは相当の関連があるのである。
したがつてこれらを猥褻性がある故のを以てただちに否定し去ることは、表現の自由との関係において少なからず疑問の存するところである。
三 憲法二一条にいう表現の自由が、言論、出版の自由のみならず、知る自由をも含むことについては恐らく異論がないであろう。辞句のみに即していえば、同条は、人権に関する世界宣言一九条やドイツ連邦共和国基本法五条などと異なり、知る自由について何らふれるところがないのであるが、それであるからといつて、知る自由が憲法上保障されていないと解すべきでないことはもちろんである。けだし、表現の自由は他者への伝達を前提とするのであつて、読み、聴きそして見る自由を抜きにした表現の自由は無意味となるからである。情報及び思想を求め、これを入手する自由は、出版、頒布等の自由と表裏一体、相互補完の関係にあると考えなければならない。ひとり表現の自由の見地からばかりでなく、国民の有する幸福追求の権利(憲法一三条)からいつてもそうであるが、要するに文芸作品を鑑賞しその価値を享受する自由は、出版、頒布等の自由と共に、十分に尊重されなければならないのである。当該作品が芸術的・思想的に価値の高いものであることについて、それが客観的に明白でほとんど異論あるを見ないときはもちろん、通常一般の作品にあつても、特段の事情のない限り、これらが自由に出版、頒布され且つ自由に読まれてこそ、文化の進展が期待されるのである。かかる作品の頒布等が社会の性秩序に何らかの好ましからざる影響を及ぼすものであるとしても、その作品を出版し、これを鑑賞せしめることに、より大なる社会的価値がある限り、その頒布等をとらえて、これを刑法一七五条に問擬することは、結果において表現の自由を侵すことになるというべきである。そうである以上、かかる行為を刑法一七五条に問うことは憲法上許されないところであり、したがつて、上記の作品も同条にいう猥褻の文書に当らないということになるであろう。
四 多数意見は「出版その他表現の自由や学問の自由は、民主主義の基礎をなすきわめて重要なものであるが、絶対無制限なものではなく、その濫用が禁ぜられ、公共の福祉の制限の下に立つものである」となし、「芸術的・思想的価値のある文書についても、それが猥褻性をもつものである場合には、性生活に関する秩序および健全な風俗を維持するため、これを処罰の対象にすることが国民生活全体の利益に合致する」ものだという。たしかに、表現の自由は、思想及び良心の自由などと異なり、必然的に対外的な言動を伴なうものであるから、濫用されるときは、社会公共の利益を害し、或は他人の権利乃至自由と相剋を来すわけであつて、本来無制約であるべきでないことは多数意見の前示説示のとおりである。しかしとりたてていうまでもなく、自由な言論、自由な出版は、民主主義の基礎であり、文化の全領域にわたる発展の根本的な条件であるから、これを制約するにあたつてはいやが上にも慎重でなければならないのである。公共の福祉による制約はこれを免れないとしても、その場合における公共の福祉とは何であるかに思いをひそめ、その概念を深化し、具体化する努力を払うことが憲法の精神に副う所以であろう。公共の福祉という抽象概念を安易に駆使して表現の自由を一刀両断的に切りすてる態度は、厳に避けなければなるまい。この点について多数意見が何ら言及するところがないのを遺憾とするものである。
五 ついでながらここでふれておきたいことがある。多数意見は、ある文書について猥褻性を認めても、頒布・販売を処罰するだけのことであるから、それがただちにその文書を社会から抹殺することにはならないという。はたしてそうであろうか。もともと文芸作品は一般人に理解可能な言語を媒体とし、読者の想像力を刺戟し、その感情に訴えんとするものである。読者を全く予定しない小説はそもそもあり得ないのではあるまいか。原稿だけしか存在しないような作品、上梓はされても、手当り次第押収もしくは没収せられ、辛くも残つた僅かの部数が好事家の筐中深く蔵するところとなり、秘密裡にしか閲覧されない作品、こういうものは文芸作品としてはほとんど意味をなさないのである。かかる事態に陥つた作品はもはや社会的存在としては抹殺されたにも等しいことになるであろう。ところで確定判決にもとづく没収ならば、慎重な手続を重ねた上のことであるからともかくとして、捜査の段階において逸早く社会から放逐される(しかもそれはその後確定判決により猥褻の文書でないと判定されることさえあり得るのである。)ようなことがもし頻発するとしたならば、由由しい問題でなければならない。捜査における押収にしても、原則としては裁判所の令状を必要とし、その限りでは「司法官憲」によるチェックを経るわけではあるが、その手続はいわば密室の作業であり、反証提出の機会を与えられることなく、その上嫌疑の一応の確からしさがあれば発布されるのであるから、慎重さにおいて、判決手続に比すべくもないことは明らかである。もしまた現行犯と目しうるときであるならば、裁判所による何らの審査もない。場合によつては捜査官による当該押収が、司法警察の域を越えた、行政警察的予防措置の役割さえも演じかねないのである。のみならず、警察官憲による警告等の事実上の心理的強制、もしくは検挙の暗示におびえた似て非なる自主規制などによつて、事前に創作、出版、頒布等が、そのいずれかの段階において抑止せられ、折角の、文化財にもなり得べき作品が、闇から闇に葬られることさえもあり得るであろう。而も以上の如きそれぞれの抑止が、やがて連鎖反応を起し、その影響が場所的にも時間的にもひろがりをもつにいたるならば、現在及び将来にわたる出版文化の発展に大きな障碍をもたらすという憂慮すべき事態を招来する危険があるのである。
六 猥褻性のある箇所を保有する作品であつても、その作品の有する社会的価値が、猥褻性のもつ反社会的価値に優越する以上、その頒布等を刑法一七五条に問擬すべきでないことは前に述べたとおりである。しかし、たとえそれが名作とよばれ得るものであるにもせよ、かかる作品を改ざんしそのなかよりきわどい箇所を抜すい編集したり、その部分を特に浮びあがらせるような操作を施こして作成されたような文書は、作品の核心をなす主題を葬り去り、性行為の描写自体を自己目的とするものにほかならないから、これを猥褻の文書としてその頒布等を処罰しても表現の自由を侵すことにならないことはいうまでもあるまい。この場合は原作から遊離した、ほとんど春本にも近い別箇の文書とも見られるわけであるが、これに反し、作品には改ざんを施こさずそれをそれとして上梓した場合でも、なおつぎのような問題は残るのである。即ち、出版、頒布、販売にあたり、商業的な利潤追及を主眼とし、印刷製本の体裁や、宣伝、広告、販売の方法その他が、明らかに、読者の低俗な好色淫蕩な興味、関心をかきたて、その性的な興奮を狙つたものであると認められるときは、作品が社会的価値を有しているとしても、猥褻の文書の頒布等としてこれを処罰してもこれまた憲法上の問題ではないと解すべきである。けだし、作品の猥褻性の有無と社会的価値は、一般読者が作品全体に含まれる思想や主題を追つて、真摯にこれを通読した場合の影響如何によつて判断さるべきであるところ、上記の如きいわゆるパンダリングとよばれる頒布等のあり方こそは、正にかかる読書態度の否定を意図するものであつて、その結果作品の猥褻性がどぎつく浮び上り、作品の社会的価値も低俗に堕するにいたるものと考えざるを得ないからである。
ところで、原判決は、本件訳書の社会的価値については何ら判定するところがなく、またその出版、販売に関する前記の如き諸般の重要な周辺的事情についてもまたほとんどふれるところがない。私の見解とはその前提を異にするのでやむを得ないのであるが、私見に即するかぎり、原審には審理をつくさざる違法があることは明らかであり、したがつて原判決を破棄しこれを原審に差し戻すのが相当だというべきである。しかしながら、本訳書を通読しこれを全体として観察すると、本訳書は、後述のとおり、もともと一般読者の性的欲求を過度に刺戟し興奮せしめる文書ではないと見ることもできないわけではない。そうだとすれば、敢えて審理を重ねるまでもなく、本件は猥褻文書販売、同所持罪として処罰すべきものではないことになるわけである。
七 本件訳書の原著は、マルキ・ド・サドが人間性の探究とその特異な思想を展開するために小説の形式を用いて創作したものであるが、いま問題とされている訳書についてみると、芸術的に果して高い地位を占めるものかどうか、少なくとも私には疑問とせざるを得ないものがあり(もつとも芸術的な価値いかんは鑑賞者の主観に依存することが多いのであるし、裁判所がこれを判定することは特別の場合のほか適当でないのみならず、その任務にも属しないと考える。)、しかも、本書には必要を越えて露骨な性的行為の描写があるとの感を禁じ得ない。原判決摘示にかかる本件訳書中の一四ケ所は、一審判決のいう如く、いずれも同性または異性相互の間で行なわれる淫蕩にして放埓な性的場面の描写であつて、性的行為の姿態方法、行為者の会話、その受ける感覚の記述を交えて、相当露骨且つ具体的なのである。しかし、性器や醜悪なる性行為については、今は全く死語となつた江戸時代の隠語を用いる等の用意がなされており、人間の性的興味に迎合することにより読者を酔わすとかその官能をくすぐるとかの意図は到底これを見出すことはできないのみならず、虚心に通読すれば、読者に原作者の思想と主題とを忠実に伝えようとする訳者の誠実な執筆の姿勢をうかがうことができる。篇中特に注目すべきは、男女による正常な性行為についての表現がないことであつて、その描くところは、わが国の読者にとつて無縁である非現実的な行為が数々であり、露骨ではあつてもほとんど情緒的なものを欠いているのである。指摘されている箇所及びその前後には倫理や宗教を否定し神を冒する言葉や事実が繰り返し述べられているが、すべては荒唐無稽のことに属し、而もそれはグロテスクの極、ほとんど嘔吐を催さしめるほどの不潔さであつて、通常人としては全篇の通読をむしろ苦痛とせざるを得ない底のものである。部分的には性慾を刺戟する要素があつても、全体として見る限り、その効果は全く減殺消滅せしめられているといつても過言ではあるまい。作品の猥褻性の有無の判断は、恣意的にその一部を抽出し、これを拡大して検討するごとき方法をもつてすべきものではないのであるから、本件訳書は結局において、性的快感をくすぐり、性慾を刺戟興奮せしめるものではなく、猥褻性の定義を、前記チャタレー事件における最高裁判所の判決の示す見解によつたとしても、これを刑法一七五条の猥褻の文書とすることは誤であるといわねばならないのである。(入江俊郎 草鹿浅之介 城戸芳彦 石田和外 田中二郎 松田二郎 岩田誠 下村三郎 色川幸太郎 大隅健一郎 松本正雄)(横田正俊、奥野健一は、退官のため署名押印することができない。)